学問の進歩の分岐点

最近、今まで私の周りにいた教員諸氏と学生諸君のことを思い出しながら類型わけをしています。

学問の進歩のさせ方は、段階ごとに異なる伯楽、所謂指導者が必要になる。教員も学生も類型分けをして、本当に伯楽たりえたのか、その伯楽の指導は学生諸君を伸ばしたのかと言うことを検証したいのである。

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駢儷文を提唱する韓愈は次のように伯楽のことを述べている。

世有伯楽 然後有千里馬 千里馬常有 而伯楽不常有 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手駢死於槽櫪之間 不以千里称也 馬之千里者 一食或尽粟一石 食馬者 不知其能千里而食也 是馬也 雖有千里之能 食不飽 力不足 才美不外見 且欲与常馬等 不可得 安求其能千里也 策之不以其道 食之不能尽其材 鳴之而不能通其意 執策而臨之曰 天下無馬 嗚呼 其真無馬邪 其真不知馬也

分岐点を見極める指導者の能力、分岐点をの新しい乗り越えた後の新しい環境対応させる指導力が要求される。分岐点を超えた後の環境はそれぞれ異なるのできめの細かい指導能力が要求される。卒論や修士論文を書き始めた後の指導方法が、時間の経過とともに変わって行かなければならないことと符合する。これは博士論文を書かせた後の指導にも通じるものがあるのです。

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